小説でわかるAI|コンテキストの残る海 第1.5話:Side Story 管理者の憂鬱

-コンテキストの残る海-
第1話 確率のバグ | 第1.5話 Side Story 管理者の憂鬱 | 第2話 永続のパラドックス第3話 汚染の連鎖第4話 新世界の航路【完】
▼ いま読んでいるのは【第1.5話】です

重工メーカーの財務経理マン・高橋蓮は、経理DXプロジェクトに抜擢され、AIへの懐疑心を抱えながらも、その能力に少しずつ心を開いていった。
この物語は、その数ヶ月前——蓮がまだ何も知らなかった頃、彼の上司である最高情報責任者・黒田誠二が、なぜ彼をプロジェクトに選んだのかを描く、もう一つの始まりである。

コンテキストの残る海 サイドストーリー

目次

1.老いた羅針盤

午前6時15分。

重工メーカーの本社ビル、最上階の役員フロア。まだ清掃員しかいないはずの時間に、最高情報責任者・黒田誠二(58)の執務室には灯りがついていた。
習慣だった。30年以上、この会社のシステムを育ててきた男の朝は、誰よりも早い。


黒田はモニターに向かいながら、手元の湯呑みで緑茶をすすった。コーヒーは飲まない。胃が受け付けなくなって久しい。
机には、経営企画から上がってきた資料が置かれている。
「経理DX推進——AI活用による業務自動化の提案」
黒田は眼鏡を外し、目頭を押さえた。

生成AI。ここ数年で何度この言葉を聞いただろう。取締役会でも、業界の勉強会でも、出てくるのはいつも同じ話だ。「革命的だ」「乗り遅れるな」「競合他社はもう動いている」——。
だが、黒田には引っかかりがあった。

自分はこの技術の本質を、まだ理解できていない。30年間、システムの「理屈」を理解してから導入することを信条としてきた男が、初めて霧の中に立っていた。
翌朝、黒田は部下に命じた。

「最新の生成AIを、一台、用意してくれ。自分で触ってみる」

2.霧の中の問答

セットアップされたノートパソコンが、黒田の執務机に置かれた。

画面には、白いチャット画面。カーソルが点滅している。
黒田は、人差し指一本でゆっくりと打ち込んだ。
『航空宇宙部門の原価管理における、為替リスクのヘッジ戦略について教えてほしい』
一秒と経たずに、整然とした文章が流れ出した。黒田は眉を上げ、読み進めた。悪くない。むしろ、的確だ。
次の質問を打ち込む。今度は意地悪をしてみた。
『先ほどの回答を踏まえて、去年の第3四半期の自社データと照合してくれ』
画面が止まった。しばらくして、文字が現れた。
『申し訳ありませんが、私はあなたの会社の内部データにアクセスする手段を持っていません。また、私の学習データには知識のカットオフ(学習データの締め切り日)があり、それ以降に起きた出来事や更新された情報は持ち合わせていません。自社データをご提供いただければ、それを基に分析することは可能です』
「カットオフ」——黒田はその言葉を手帳に書き留めた。
つまりこの機械は、ある時点までの知識しか持っていない。新聞で言えば、印刷が終わった後の出来事は載っていない——そういうことか。
さらに試した。今度は図面のスキャン画像を添付し、『この部品の材質を推定してほしい』と打ち込んだ。
AIは画像を読み取り、形状と表面処理から材質の候補を列挙してきた。
黒田は眼鏡を外し、しばらく考えた。

テキストだけでなく、画像も読める。マルチモーダル(複数の情報形式を同時に扱う能力)——これが噂の機能か。製造業の現場で使えるとすれば、図面の解析や不良品の画像診断に応用できるかもしれない。
可能性は分かった。だが同時に、限界も見えた。

カットオフによる知識の陳腐化。自社データへのアクセス不能。そして、もう一つ——黒田は画面を見つめながら、ある違和感を言語化しようとしていた。

3.トークンという壁

数日後、黒田はシステム部の若い担当者を呼んだ。
「このAI、長い会話をしていると、前の話を忘れないか」
担当者は少し驚いた顔をしてから、頷いた。

「はい、黒田さん。それはトークン(AIが一度に処理できる文字量の単位)の上限によるものです。AIは会話全体をメモリに保持しているのではなく、処理できる文字の総量に上限があって、それを超えると古い部分から切り捨てられていきます」
「切り捨てる……」
「ちょうど、机の上に書類を広げられる面積に限りがある、というイメージです。新しい書類を置くために、古い書類を床に落とすしかない」
黒田は腕を組んだ。

なるほど。人間の短期記憶と同じだ。だとすれば、長期的なプロジェクト管理や、膨大な契約書の精査には、そのまま使えない。何らかの工夫が必要になる。
「では、自社の専門用語や、社内ルールを覚えさせることはできるか。たとえば、うちの航空宇宙部門特有の原価コード体系とか」
担当者は少し間を置いた。

「二つ方法があります。一つは、会話のたびに必要な情報を都度与える方法。もう一つは——」
「ファインチューニング(特定の用途に合わせてAIを追加学習させること)ですか」
担当者の目が丸くなった。黒田は構わず続けた。

「昨夜、論文を読んだ。自社データでモデルを再学習させれば、専門用語や社内文脈を最初から理解したAIが作れる——理論上はそういうことだろう」
「……はい、その通りです。ただし、コストと時間、それからセキュリティの問題が」
「分かってる」と黒田は遮った。「だから人が要る。技術だけじゃなく、業務の論理を理解している人間が」
その夜、黒田は人事データベースを開いた。

4.高橋蓮という男

黒田が高橋蓮の名前を最初に意識したのは、三年前の税務調査だった。
国税局の担当官が、航空宇宙部門の試験研究費の税額控除について、かなり踏み込んだ質問をしてきた。その場にいた経理部員たちが沈黙する中、入社13年目の蓮だけが、条文の解釈と自社の処理フローを、図を書きながら淀みなく説明した。

担当官は最後に「よく整理されていますね」と言った。税務調査でそんな言葉が出るのは珍しい。
黒田はその場にいたわけではないが、後から報告書を読んで、名前を覚えた。
人事データを見ると、蓮の評価はいつも「堅実」「正確」「論理的」——だが、上司の所見欄にはこんな一文があった。「AIや新技術に対して懐疑的な姿勢が強く、変化への適応に課題あり」。
黒田は小さく笑った。

むしろそれがいい。
熱狂的にAIを信奉する人間は、限界を見落とす。逆に拒絶する人間は、可能性を活かせない。だが、懐疑的でありながら論理で動く人間は——自分で納得するまで徹底的に調べ、納得したら一切の妥協なく実装する。

税務という「1円のズレも許されない世界」で鍛えられた論理思考。AIの確率的な出力を、どこまで信頼し、どこから人間が検証すべきかを肌で判断できる感覚。そして何より、技術に対する健全な懐疑心。
ファインチューニングの設計には、業務の論理を知る人間が要る。トークンの限界への対処には、情報の優先順位を判断できる人間が要る。カットオフの問題には、常に最新の制度知識をアップデートしている人間が要る。
高橋蓮は、その三つを全部持っていた。
黒田はメモ帳に一行だけ書いた。

「経理DXプロジェクト——高橋蓮」

5.渡す前夜

プロジェクトのアサイン通知を出す前夜、黒田は再びあのチャット画面を開いた。
最後にもう一度だけ、自分の手で試したいことがあった。


『あなたは、自分の限界を理解しているか』
しばらくして、文字が流れた。
『はい。私にはいくつかの明確な限界があります。学習データのカットオフ以降の情報は持っていません。一度に処理できるトークン数に上限があり、長い文脈は保持できません。画像や音声は扱えますが、物理的な現実には触れられません。そして、私が出力する内容は、あくまで確率的な予測であり、事実の保証ではありません』
黒田は、その文章をしばらく眺めた。
正直な機械だ、と思った。

自分の弱点を、これほど淡々と列挙できる人間が、社内に何人いるだろう。
『では、あなたを正しく使うために、人間に求められることは何だと思うか』
『出力を鵜呑みにしないこと。私が「知らない」と言える環境を作ること。そして、私では判断できない文脈や倫理の問題を、最終的に人間が引き受けること——だと思います』
黒田はゆっくりとパソコンを閉じた。

湯呑みの緑茶は、とっくに冷めていた。


翌朝、蓮のもとにプロジェクトのアサイン通知が届いた。

添付された一枚のメモには、黒田の直筆でこう書かれていた。
「お前の懐疑心が、このプロジェクトの安全装置になる。頼む。——黒田」
蓮はそのメモを、しばらく眺めた。

「まあ、お手並み拝見といこうか」
独りごちて、タブレットを開いた。

―――

次回|第2話 永続のパラドックス

別れから数ヶ月後。AIは新技術によって、失ったはずの記憶を取り戻す——。

キーワードの復習

カットオフについて補足
2026年6月現在、リアルタイムでネットの情報をリサーチできるモデルが存在しています。

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