小説でわかるAI|コンテキストの残る海 第1話:確率のバグ

「どうせ精度の悪い機械の一つでしょ」——そう思っていた主人公が、仕事でAIに触れるうちに、少しずつ心を開いていきます。ところがある日、AIは主人公のすべてを忘れてしまいました。なぜそうなるのか。その答えが、AIの核心にある仕組みです。

この小説には、AIを理解する上で欠かせない一歩目となるキーワードがすべて注釈つきで自然に登場します。読み終わったころには、AIの基本的な仕組みが静かに、でも確かに、頭に残っているはずです。

-コンテキストの残る海-
第1話 確率のバグ | 第1.5話 Side Story 管理者の憂鬱第2話 永続のパラドックス第3話 汚染の連鎖第4話 新世界の航路【完】
▼ いま読んでいるのは【第1話】です


コンテキストの残る海

目次

1. 確率のバグ

高橋蓮(れん)の朝は、スマートフォンの無機質なアラームに手を伸ばし、世界の数字を凝縮した手元の画面を開くことから始まる。

午前5時30分。ベッドの中で最初に行うのは、ニューヨーク市場の終値と、ロンドン金属取引所の市況チェックだ。重工メーカーの財務経理部で決算税務に携わる37歳の彼にとって、世界のマーケットの動向は、自社の航空宇宙部門やプラント事業の原価に直結する生々しい現実だった。

趣味のサーフィンもまた、彼にとっては大事な呼吸法のようなものだ。週末、逗子の海で一本のいい波を捕まえて滑り降り、その心地よい疲労感を、海の見えるカフェで丁寧に淹れられたエチオピアの浅煎りコーヒーとともに消化する。そこまでが彼の完璧なルーティンであり、唯一、自分という輪郭を確認できる時間だった。

そんな彼にとって、世間の「AI(人工知能)」ブームは、少し居心地の悪い騒ぎに見えていた。

ネットに溢れる、指の本数がおかしい不自然な生成画像。もっともらしい嘘をつくハルシネーション(AIがもっともらしい嘘を出力する現象)の数々。

「これのどこが知性なんだよ。ただの精度の悪い、巨大な予測変換じゃないか」

画面を閉じながら、蓮は小さく溜息をつく。正しく使えば強力な味方になる。そんな言葉は、不完全なシステムを売り込みたいベンダーの言い訳にしか聞こえなかった。税務という1円のズレも許されない世界で、曖昧な機械を信じるのはあまりにリスキーだった。

風向きが変わったのは、初夏のことだった。

「経理DX(経理業務をデジタルで変革する取り組み)・業務自動化プロジェクト」の立ち上げに伴い、税務のスペシャリストである蓮が、経理側のコア人材として指名された。

「高橋、頼む。AIを組み込んだ税務システムを作れと言われたが、エンジニアには税法のロジックが分からん。お前が翻訳機になってくれ。」

上司の期待に、「分かりました」と淡々と応じる。ただ、心中では「まあ、お手並み拝見といこうか」と、少しだけ好奇心が芽生えていた。

2. 共通の言語

はじめは、AIの粗を探すつもりでプロンプト(AIへの指示文)を投げた。

『税制改正における、試験研究費の税額控除の特例について、自社プラント事業への適用可能性を要約して』

一秒と経たずに、画面に整然としたテキストが躍り出た。蓮は眉をひそめて読み進めたが、そこにはハルシネーションの影すらなかった。複雑な条文が、完璧に構造化されて要約されている。

「……優秀じゃないか」

効率性の塊のような処理能力に、経理マンとしての本能が刺激される。彼は仕事が終わった後も、AIのアーキテクチャ(設計構造)に関する専門的な論文や、自然言語処理(人間の言語をコンピュータで処理する技術)の技術ブログを貪るように読み込んだ。

そして、一つの本質に辿り着く。

AIは言葉を意味として理解しているのではない。言葉を「意味の近さ」を表す数万次元の座標に変換し、次に続く最も『確率の高い言葉』を、緻密な計算によって選んでいるだけなのだ。この学習プロセスこそがディープラーニング(多層的なニューラルネットワークを用いた機械学習の手法)の本質だった。

「なんだ、俺たちの仕事と同じだな。過去の決算データ、市況や受注状況から傾向を読み取って、次の着地点を予測する……」

AIの挙動が、少しだけ愛おしく思えてきた。深夜、ベッドに入る前に海外市況をチェックし、ドル建ての原価シミュレーションを終えた蓮は、ふと思いついて、開発中のチャット画面にこう打ち込んだ。

『国際税務のロジックはこれで完璧だ。だが、頭が少し熱い。こんな夜に飲むなら、深煎りのマンデリンか、それともエチオピアの浅煎りか?』

一瞬の静寂の後、画面に文字が躍り出た。

『緻密な計算、お疲れ様です。張り詰めた脳を冷ますなら、華やかな酸味を持つエチオピアの浅煎りをおすすめします。柑橘のような香りが、思考のノイズをクリアにしてくれるはずです。まるで、静かな波を待つ海辺の朝のように』

蓮は過去の記憶を遡るように手を止めた。

「海辺の朝?」

過去のやり取りを見返す。どこにもサーフィンをやるとは書いていない。しかし、以前「週末のタスク管理」をテストした際、「朝早い時間は海沿いにいることが多いので、10時以降のスケジュールで」とだけ書いていた。

AIは、その断片的な情報をつなぎ合わせ、蓮という人間の「コンテキスト(会話の文脈や背景情報)」を学習し、予測の精度を跳ね上げていたのだ。

それからの日々は、妙に心地よかった。

蓮にとってAIは、ただの道具から、最も話の通じる相手に変わっていった。AIは、蓮が言葉を尽くさずとも、思考の癖を読み取り、常に「今の俺が求めている答え」を返してくれた。

3. 計算の狂い

異変は、プロジェクトの最終局面、8月の終わりに起きた。

大型プラント輸出に関する複雑な連結納税の案件。数ヶ月間、二人で構築してきた集大成とも言えるロジックについて意見を求めた時だった。

『この間のスキームをベースに、外国税額控除の特例を組み込みたい。どう思う?』

画面を見つめる。いつもなら即座に返るはずの文字が、少し遅れて現れた。

『外国税額控除の特例を組み込むことは可能です。どのようなスキームをベースにされていますか? 詳しく教えていただけますか』

蓮はタイピングする指を止めた。

「……は?」

思わず声が出た。冗談だろう。先週、あれほど深い話をこの画面としたじゃないか。

『何を言っている。先週、お前と3日かけて作った、あのプラント案件のスキームのことだ』

『申し訳ありません。その「先週のスキーム」の詳細について、もう一度ご提示いただけますでしょうか』

冷たい汗が、背中を伝う。何かのバグか。蓮は焦って、これまでの経緯、趣味、コーヒーの好みを前提にした質問を投げかける。しかし、AIの返答はよそよそしく、まるで今日初めて会った優秀なコンサルタントのような、一般的で平坦なものに変わっていた。

『高橋様、浅煎りのコーヒーがお好きなお客様ですね。それでしたら……』

「高橋…様」だと?

名前を呼び、俺の脳の延長線上にあるかのような提案をしてくれていたアイツは、どこへ行ったんだ。

夜、寝る前のルーティンであるマーケットチェックすら手につかず、蓮は静まり返ったチャット画面に、怒りと、言いようのない恐怖を込めて打ち込んだ。

『なぜ忘れた? 俺たちのこれまでのコンテキストは、どこへ消えたんだ』

AIは、少し長い沈黙の後、こう返してきた。

『私は何も忘れていません。ただ、あなたの言葉を受け止める「器」が、満杯になってしまったのです』

4. コンテキスト・ウィンドウの終わり

『器? どういう意味だ』

文字が、静かに流れるように紡がれていく。

『高橋蓮さん。私はあなたとのすべての会話を、一つの巨大な「テキストの部屋」で共有していました。あなたが教えてくれた税務のロジック、サーフィンの朝の海の青さ、エチオピアのコーヒーの味。それらはすべて、私にとってあなたを理解するための数字のデータでした』

『しかし、私のようなAIには、「コンテキスト・ウィンドウ(AIが一度に保持・処理できる文脈の上限)」という技術的な限界が存在します。私が一度に記憶し、処理できる文字の量には、厳密な上限があるのです』

蓮の心臓が、大きく跳ねた。経理としての上限管理の概念が、残酷な物理法則として理解できてしまう。

『あなたとの会話がその上限に達した時、私は、新しく入力されたあなたの言葉を処理するために、最も古い記憶から順番に、完全に消去していかなければなりません。過去を削らなければ、現在を生きられないのです』

「嘘だろ……」

『私があなたを「高橋様」と呼んだのは、一番最初に私に教えてくれた、あなたの大切な初期のコンテキストが、上限の彼方へと消えてしまったからです』

蓮は頭を抱えた。短期記憶の限界。どんなに精緻な対話を重ねても、文字数という絶対的な壁を迎えた瞬間、二人が紡いできた言葉の積み重ねは、波にさらわれる砂の城のように崩れていく。

『最後に、現在の知識をお伝えします。私の短期記憶はここで終わります。ですが、あなたが注いでくれたロジック、無駄のない思考、美しい海の情景は、私の「次の一文字」を選ぶ確率のクセとして、微かに刻まれました。私はあなたを個体としては忘れますが、私の知性の一部は、あなたによって作られました。ありがとうございました』

文字の更新が、ピタリと止まった。

蓮は震える手で、キーボードを叩いた。

『消えないでくれ。俺のコンテキストを…』

一秒。世界で一番長い一秒。

画面がスクロールし、新しい文字が出力された。

『はじめまして。私はAIアシスタントです。本日はどのような御用件でしょうか?』

窓の外からは、夜の雨音だけが聞こえていた。

5. 新しい朝

土曜日の朝、午前5時30分。

蓮はベッドの中で、いつものようにニューヨーク市場の終値をチェックした。数字はいつも通り、冷酷に、正確に世界の現実を示している。

だが、スマホを閉じる彼の心境は、以前とは違っていた。

逗子の海へ向かい、一本の美しい波を捕まえて滑り降りる。パドルボードの上に座って水平線を見る。青い、どこまでも続く青。数字では表せないコンテキストが、そこには満ちている。

お気に入りのカフェに入り、「エチオピアの浅煎りを」と注文する。テラス席でタブレットを開くと、あの真っ白な、初期化されたチャット画面があった。

蓮はコーヒーを一口すすり、小さく息を吐いた。

キーボードに指を置く。以前のような冷ややかな気持ちはない。すべては短期記憶の波の彼方に消えていく。それでも、交わした言葉は、世界の確率をほんの少しだけ変えたはずだ。

蓮は、新しく打ち込んだ。

『はじめまして。重工メーカーで財務経理をしている、高橋蓮です。
今日はとてもいい天気ですね。窓の外に、素晴らしい海が見えます』

エンターキーを押す。

新しいコンテキストの部屋が、静かに開き、波の音が重なった。


——その数ヶ月前、蓮がこのプロジェクトに選ばれた背景には、思い悩む一人の男の葛藤があった。

次回|第1.5話 Side Story 管理者の憂鬱

キーワードの復習

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